意識低い系の読書メモ

文学・会計学が中心

(感想)ヘミングウェイ「日はまた昇る」

原題は"The Sun also rises”。
ジェイクたちのモラトリアム的・享楽的・退廃的な日々。
時代は第一次大戦後、ジェイクの祖国アメリカは第一次世界大戦を得て、世界トップ国としての存在感を増した。
このころのアメリカには、どこか質実剛健で勤勉なイメージがあるらしい。
実際すでに世界一の産業力を誇っていたし、禁酒法なんて法律があり、10年以上も酒を飲むことが(一応は)禁止されていたのである。
 
かたや戦争でボロボロのヨーロッパ。
敗戦国でなくてもドルの価値が上がりまくりで、アメリカ人が酒を飲んでハメを外すにはうってつけの場所だったようだ。
しかし物語の前半の舞台はパリ。いまのタイのカオサンのように、陽気な遊び方ではない。
確かに、ドルのおかげで生活には困らないし、30歳を超えているが独身で自由である。
しかし祖国を捨て、生きる目的もなく、戦争の怪我で性的機能も失っている。
どれだけ酒を飲んでも、どこか満たされない空虚感にいつも支配されている。
心理描写がなく、淡々と行為と会話で進んでいく「乾いた文体」が、ジェイクたちの虚しさを際立たせる。
 
一方、パンプローナの若き闘牛士、ロメロ。
彼の生き様は、ジェイクたちとは真反対だ。
闘牛は絶えず死と隣り合わせのスポーツである。一瞬の油断が命取りとなる。
そんな危険なスポーツ、しかも相手の牛を殺すという野蛮なスポーツを、「阿呆らしい」と思う人は当時もいる。
パンプローナのあるウェイターは、脱走した牛に殺された人のことを「たかが遊びで」「一時の気晴らしで」と嫌悪感を示す。
しかし、ロメロはいつも真剣勝負で「最良の友達」である牛と戦っているのだ。
 
闘牛シーンの生き生きとした描写が素晴らしい。
読了後に実際の闘牛の動画をYoutubeで見たが、動画よりもヘミングウェイによる描写のほうがドキドキする。
 
闘牛のシーンだけを読んでもおもしろいが、ジェイクたちのモラトリアム的な日常との対比が鮮やかである。
ジェイクたちには欲求がない。金も自由もあるが、逆に言えば死の心配がない。
世界大戦という強烈な時代を経験した彼らにとって、命をかけてでも「コミットメント」できるものがない状態は非常にキツイのである。
酒を飲んで気を晴らしても、酔いから覚めればいつもと変わらない一日がまた始まってしまう、すなわち、日はまた「昇ってしまう」。
かたやロメロは、命の危険を冒して、闘牛という競技に全力を捧げる。
確かに、それは「たかが遊び」の「阿呆らしい」ことかもしれない。しかしいざ闘牛場に立てば、そこは人間と雄牛の命を懸けた真剣勝負。
そこには紛れもない「生の実感」がある。
この対比が、闘牛のシーンをより緊張感のあるものにしているように感じられた。
 
実際、ヘミングウェイ自身も闘牛にかなりハマっていたらしい。
そしてジェイクたちのモデルは、自分やパリで出会ったその友人たちだそうである。
ヘミングウェイは「自分で経験したこと」を描写するのが得意で、逆に経験していないことは書けないタイプの作家だったと、読書会で聞いたが、すごくわかる気がする。
 
猫町倶楽部の読書会で、関連するオススメ本を紹介する時間があったので、ちょっと考えたのだが、
ちょっと乱暴に言うと、結局ジェイクたちは「暇」なんだと思った。
戦争という大混乱を経験した彼らは、暇があってもそれを「暇つぶし」することを知らない。
だからこそロメロの闘牛が際立つのだが、誰もがロメロのようにはなれないのもまた現実。
というわけで、國分功一郎「暇と退屈の倫理学」を紹介してみた。どんな風に思われたか、なんとも言えないが。

鎌田浩毅「火山はすごい」

火山学者が一般向けに火山研究について書いたエッセイ。1章1火山。
自身が火山の美しさに感動した話や、研究仲間を火砕流で失った話、今まさに噴火している火山の将来予測をリアルタイムで行った話・・・
火山全般について、これというテーマを絞らず、時に専門的な説明も織り混ぜつつ、自分の体験を語っている。
科学書だが、どこか文学的な雰囲気もある。レヴィ・ストロースの「野生の思考」になんとなく似ている。
 
読んでいて強く思ったのは、火山研究という一見マニアックな活動が、実に多様な分野に関わっているということだ。
中学生のころ勉強したような、地層から過去の火山活動を読み解く火山地質学だけが火山研究ではない。
電磁気などの方法から火山体の地下構造を明らかにする火山物理学や、地下水や火山ガスの分析を行う火山化学もまた火山研究である。
 
また、火山が噴火すれば災害に直結しうるため、社会との関わりが強く、火山は社会学でもある。
火山の噴火予測は地質や物理や化学のデータから判断する総合的なものであり、100%の予測は不可能だ。
しかし、どこまでを警戒区域に設定し、どこでそれを解除するのかという現実の問題は、するかしないかのどちらかしかない。
もちろん大事に越したことはないが、避難には実際的な経済負担が伴う。なんでもかんでも避難させるわけにはいかないという現実がある。
 
また、火山活動は何万年という壮大なスケールで活動しているため、過去の被害状況を調べるためには、古文書を調べることもある。
その意味で、火山は文学でもあるのである。
 
このように、火山研究は、サイエンスであり、現実社会を動かすものであり、歴史であり、また将来予測でもある。
そして、富士山のように、その美しさは人を惹きつけるものでもある。
そんないろいろな思いを全部ひっくるめて、「火山はすごい」という潔いタイトル。まさに本書の内容をスバリ言い表しているのではないだろうか。

感想「博士の愛した数式」

妻のお気に入りである。結婚前に一度借りて読んだが、忘れてしまったので読み返した。
きれいな物語だった。とくに「博士」と「私」、二人の大人の心のきれいさが、すっと染みわたる。そして、ルート君とタイガースの無邪気さに何度も微笑んでしまう(タイガースには無邪気という言葉が似合う)。
さらっと読んでしまったけど、感想を書いているうちに発見することも多くて、思い返すほどによい小説だった。
 
不慮の事故で、80分の記憶しか維持できない元数学者の博士は、数学はできるが、生活ができない。
日中は数学雑誌の懸賞問題を考えて暮らしている。
そんな博士の設定にはインパクトがあるが、一方の「私」のほうもなかなか事情が込み入っていて、
子供ができたが父親に逃げられ、シングルマザーとなり、家政婦として働いている。
学校は中退で数学のことはよく知らないが、自分の生活に加えて、家政婦として人の生活も支えながら暮らしている。
 
「生活が欠落した」博士と、「生活だけがある」私。
財産があり働かなくても生きていける博士と、必死に働いてなんとか生きている私。
極限まで観念的に生きる博士と、極限まで実際的に生きる私。
博士と私はある意味、対照的な二人である。
 
ただ、二人とも「俗世間」から隔てられた、閉鎖的な日常を生きているという点は共通している。
閉鎖的だが、きれいな日常。
 
解説でも触れられていたが、二人(ルートを含めて三人でもいい)の関係をなんといったらいいのだろう。
「友情」や「恋愛」ではない。もっとそれは「生活」に根付いた感情である。
しかし「家族愛」とも違う気がする。家族といういわば一心同体的なイメージと、二人の立場の違いが合わないのである。
 
そして、うまく言えないのだが、そんな立場の違いが、むしろ二人の関係をよりシンプルにしているように思える。
博士も私も、相手を自分や他者と比較するということがない。
博士が裕福だからといって、私は博士を嫉妬しないし、私が無学で貧乏だからといって、博士は私を軽蔑しない。
普通の平凡な人間なら、自分の境遇と比べてしまうだろう。でも彼らはそんなことはちらっと考えたこともない。
ただ純粋に、相手を大切に思う、心のきれいさ。
 
ちなみに、登場人物たちの純粋さを際立たせるのが、税理士の俗っぽさ、嫌味っぽさだ。(ほとんど出番はないが)
博士の「数字」は美しさであり、自然であり、発見するものである一方、
税理士の「数字」は、お金であり、人工物であり、自ら計算するものである。
税理士の数字には生々しい生活感があり、その意味では博士と私の中間とも言える。
だとすると、「俗っぽさ」は、博士の極と私の極の中間にあるものなのかもしれない。
 
ドロドロしたしがらみや社会なんか忘れて、ただきれいなものに触れたい。
そんな時に、また読み返したい小説だった。

堀江貴文「ゼロ」

堀江貴文の「ゼロ」を読んだ。
特にホリエモンの信者でもアンチでもないのに、なんで読んだのか覚えていないが、たまたま読んだ。
言っていることは全然普通で、ポジティブで、おもしろかった。
まさに「啓発する」啓発書である。
 
結果を出すには、ストイックな努力でなく、ゲームのように「ハマる」こと。
 
「勉強でも仕事でも、あるいはコンピュータのプログラミングでもそうだが、歯を食いしばって努力したところで大した成果は得られない。努力するのではなく、その作業に「ハマる」こと。なにもかも忘れるくらいに没頭すること。それさえできれば、英単語の丸暗記だって楽しくなってくる。」
 
「やりがいとは「見つける」ものではなく、自らの手で「つくる」ものだ。そして、どんな仕事であっても、そこにやりがいを見出すことはできるのだ。」
 
「人は「仕事が好きだから、営業に没頭する」のではない。 順番は逆で、「営業に没頭したから、仕事が好きになる」のだ。」
 
自分に自信をつけること、自信をつけるために、経験を重ねること。
 
「仕事でも人生でも、もちろん異性関係でも、キョドってしまうのは、性格の問題ではない。ましてや、ルックスなど関係ないし、学歴や収入、社会的な地位とも関係ない。これはひとえに「経験」の問題なのである。」
 
ヒッチハイクによる小さな成功体験を積み重ねることで、僕はコンプレックスだらけの自分に自信を持てるようになっていった。」
 
 
 
前者だけではオタクだし、後者だけでは勘違いになりやすい。
もちろん先見の明もあるが、こういう意外と難しい「両立」が時代の寵児ホリエモンを生んだのだろう。
 
堀江は自分は天才ではないと言っているし、確かに前半で語られる生い立ちを読む限り天才タイプという感じではないが、
それでも頭は相当よい人だと思った。
学生が起業するのに、どこかから600万円も借りてくるなんてなかなかできないことである。
受験の話は、ぼくも地方都市の進学校に通っていただけに、あるあるwwとうなずけるところが多かった。
 
ホリエモンは逮捕されて、「ゼロになった」と語っているが、ぼくはそうは思わない。
 
確かに、自分で起こした会社を奪われ(まあ、上場した時点で会社は公のものだと思うが)、
資金もなくなり、離れていった人も多かったのだと思う。
 
しかし、あの頃発していた強烈なメッセージに共感し、賛同した人たちがいたからこそ、
出獄後もロケット事業とか、再生医療とか、たくさんの本を出すとかして活動できるのではないか。
 
いくら社会的なバッシングを受けようが、逮捕されようが、決して奪い取ることができない「人々の信頼」という財産を、
ホリエモンは築きあげたし、今も築いている最中なのだと思う。

「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」

妻の実家にこの本が置いてあった。ブックオフの古本で、100円の値札が貼られたまま。
妻は村上春樹とか読まなさそうな人種なので新鮮に思ったが、どうやら妻の母親が買ったものらしい。
 
さらっと読めておもしろかった。
河合隼雄の本は初めて読んだが、相手の本心を引き出すのがうまいなあと思った。
相手のペースでしゃべらせる。相手と同じ立場に自分も立つ。
そして、相手の言葉に近い言葉を使いながら、柔らかく後押しする感じ。
 
河合隼雄が若い頃、登場人物に同調するあまり、友人たちの映画の批評についていけなかった話があったが、
いかにも聴き役に徹する河合隼雄らしいエピソードだと思った。
 
以下、読んで思ったことをメモ。
 
<イメージと物語>
物語を作ることは、第一に自分の中にある「欠落」を埋めることで自分を癒すための行為である。
その意味では、精神分析医にかかる患者が自分のことを語るのと同じである。
ただ、その物語が提示する「欠落との格闘」に客観性があるとき、それは芸術として、他者にそのイメージが共有され、他者を癒すことがある。
(イメージは物語という媒介でしか伝わることがなく、一方でイメージのない物語はすぐに飽きてしまう)
 
そういう意味では、物語を作るのは必然的に苦しみを伴うし、必ず作者自身を超えたところに存在する。 
だから、村上春樹が小説を書くとき、あらかじめあらすじや結論が決まっているものではないし、
自分の書いた小説について、自分がその意味をすべて把握しているものでもない。
 
<日本流のコミットメント>
学生運動の挫折から、長らく「デタッチメント」志向だった若者が、再び「コミットメント」を始める。
オウム事件阪神淡路大震災が起こった1995年は、そんなひとつの転換点だった。
村上春樹もこのころ「ねじまき鳥クロニクル」を発表し、自身もコミットメント志向へと移行した。
 
しかし、日本人にとって大事なのは、「何に」コミットするかという問題だ。
欧米のような「個」を持たない日本人は、コミットしたいという気分が先にあって、さてでは何にコミットしようかと探している。
そしていざコミットするにしても「個」を持たないため、いつの間にかコミットによる自己表現は忘れられ、コミット先での派閥争いになってしまう。
 
対談は90年代のものだが、個人的な意見では、最近は2chSNSの広まりで、自分のコミット先がいかに「勝ち馬」であるかのマウンティング大会になっている雰囲気がある。
そして誰もがヘトヘトになって疲れているのに、同族意識に縛られてそれを言い出せない。
まさに、「コミットメントのディストピア」と言える状況。
いま求められているのは、再びデタッチメントではないかと思ったり。

(感想)「フランス革命 歴史における劇薬」遅塚忠躬

部活の顧問は世界史の先生だった。
おっとりした猫背で長身のおじいさんだったが、世界史の授業になると豹変して熱く語る。
ほとんど板書もせず、寝ている生徒に意地悪く当てたりすることもせず、いつも民衆の声を代弁するように叫んだりして、
まるでテレビのドキュメンタリーを見ているような授業だった。
東大出身で左翼だと噂されていたが、事実はともかくしっくりくるイメージだった。
 
それでも当時フランス革命はよくわからなかった。
ひとつひとつの事件はわかるのだが、なんでそんなに短期間で主役がくるくる入れ替わってしまうのか。
偉大な出来事であるというわりに、ギロチンによる血ばかりが流れている。
一足先に市民革命を成し遂げたイギリスとは、相変わらず戦争が続いている。
人権を宣言しておきながら、革命の最後にやってきたのはナポレオンの天下だった・・・
 
国王、貴族、第三身分のブルジョワ、第三身分でもブルジョワでない民衆(市民や農民)・・・
あまりにも色々な思いが交錯して、一本のドキュメンタリーのように語ることが不可能な時代。
 
たしかにフランス革命は身分対決と捉えることができる。
しかし、「悪い王様が威張っていて、国民たちが貧乏で苦しんでいる、
国民たちはなんとかしたいけど、選挙権がないからどうすることもできない、
だからそんな悪い王様をやっつけて、民主主義の社会を作ろう!」
という簡単な話ではない。
 
まず、「第三身分」と言っても、革命の主役であるブルジョワはそんなに貧乏ではない。
彼らは資本主義経済によって大いに栄え、経済的にはすでに貴族と渡り合える水準にある。
決して金持ちvs貧乏のような単純な二項対立ではないのだ。
 
ただ貴族(全体の2%)は免税特権が与えられ、税金は払わなくていいし、働かなくても持っている土地からの収入があるのに対し、
ブルジョワ(全体の23%)は稼げば稼ぐほど高い税金を払わなくてはならず、しかも払った税金は王室に無駄遣いされ、
国内関税で自由な商取引が制限されるくせに、産業革命で安く生産されるイギリス製品に対する保護関税は貴族に拒否される。
こういう政治経済的な対決があってこそ、フランス革命は起きたのである。
 
第三身分内でも、ブルジョワ(全体の23%)とその他の民衆(全体の75%)ではわけが違う。
ブルジョワは金がある。金があるから教育もある。だからルソーを読んで、大いに影響された。
しかしその日食べていくのに精一杯な民衆は、選挙権よりもパンの値段がが重要である。
教育もなく、文字ですら読めないのに、啓蒙思想に触発されるなんてことはありえない。
だから1983年に初めて実施された、男子普通選挙での投票率は10%程度に過ぎなかった。
 
民衆の力を基盤にするジャコバン派は、本来革命の同志だった者たちを次々にギロチン送りにした。
明日の保証も教育もない民衆にとっては、金持ちはみんな敵なのである。
 
極端に言えば、ブルジョワと民衆は「特権階級でない」ことだけの連帯であり、そもそも利害関係が真逆である。
パンの値段ひとつとっても、民衆が求める価格統制は、ブルジョワがよしとする自由主義経済に真っ向から反するものである。
実際、のちに起こる社会主義の運動は、ブルジョワと民衆の直接対決に他ならない。
 
ぼくは別に歴史が好きというわけではなく、例えば日本の幕末〜明治維新にはほとんど興味がない。
それはドラマティックかもしれないが、あくまで幕府派の武士と開国派の武士のぶつかり合い、英雄同士のガチンコ対決という感じがする。
そこには無名のブルジョワジーたちの生々しい打算や、大衆の無分別な要求がないのである。
維新の立役者たちの志の高さに比べれば、ロベスピエールもナポレオンも、ちっとも憧れるような人物ではない。
そもそも彼らは人物というよりは、むしろひとつの現象のようにすら感じられる。
 
経済環境で人間は決まる。
そして経済的に条件づけられた人々が、時に英雄の名を借りつつ、歴史を動かしていくのだ。
 
世間知らずな高校生の頃から、ぼくは少し大人になったのかもしれないと思った。

(感想)「ツァラトゥストラかく語りき」ニーチェ

 

ニーチェといえば、「神は死んだ」という中二病全開なフレーズである。
しかし、本当の問題は、神なき時代にどう生きるかということだ。
 
神なき時代の人々は、伝統的キリスト教観から解放されて、自由になったかと思えば、
むしろ逆に、その自由を自ら放棄しているような有様だ。
人々は群れになって、お互いに馴れ合って、生ぬるい幸福に安住している。
みんなと一緒が良くて、意見が一致することが重要で、周りから孤立することはタブーである。
もはや新しく創造したり、何か彼方のものに憧れたりすることはない。
生きるためだけに生きている。生命そのものが目的である。
そんな人間は決して、独立した自由な個人とはいえない。ニーチェはこれを「畜群」と呼んだ。
 
ツァラトゥストラはそんな人間たちに「超人」の教えを説く。
 
「人間は、克服されねばならない何かだ」
「人間の偉大さは、人間が橋であり、それ自体は目的ではないということにある。人間が愛しうるのは、人間が移りゆきであり、没落であるからだ」
 
人間は本来、綱渡りのように不安定なものだ。
進むのも、戻るのも、立ち止まるのも危険な存在。
綱から落ちて死ぬこともあるが、むしろ死ぬべき時に死ぬべきなのだ。
ニーチェはそんな動的なイメージに人間を見いだす。
 
畜群は逸脱を嫌う。英雄を嫌う。創造する者、孤独な者を嫌う。
そんな畜群の中に留まってはならない。
超人は「汝なすべし」(既存の価値観)に対して「Nein」(否)を突きつけ、
「われ欲す」(自由を求める精神)に「Ja」(然り)と宣言する。
自らの徳は他者のそれと戦うものであり、本質的に戦うことが避けられないものである。
 
ニーチェの求める人間像は、このように動的で力強いものだ。
安っぽくいえば、「変化を恐れないこと」や「世間に流されず、自分を持つこと」でもある。
しかし、ニーチェが鋭かったのはそこではない。
 
ツァラトゥストラは群衆を軽蔑する。
しかし、群衆に嫌気がさしているのは、何もツァラトゥストラだけではないのである。
「こんな世界はくだらない」と世間を軽蔑する厭世家はいつの世にもいるようだ。
 
しかしニーチェはそういう態度も否定する。彼らの軽蔑を軽蔑する。
なぜなら、厭世的な態度というのは、結局「自分が世間で不遇である」という
嫉妬や復讐心(ルサンチマン)が根底にあるからである。
彼らがもしちやほやされていたら、何の不満もなく群衆の中で安住していたに違いない。
その意味において、彼らは群衆と同レベルである。
 
厭世家だけではない。
現実世界の価値観から離れて、徳や正義を語る者、「生に意味などない」と死を説く者、学者、詩人、隠遁者・・・
ツァラトゥストラは人間界で、そんな一見「崇高」に見えがちな人々が、実は嫉妬と復讐心のかたまりに過ぎないことを見抜く。
そんなゴマカシな「Nein」を、ニーチェは決して認めない。
 
シニズムに陥らずに既存の価値観を乗り越えていくこと。
しかしそれは非常に危ういバランスでしか成り立たないものだ。
実際、ニーチェ自身、ルサンチマンの塊のような存在で、発狂して精神病院に入れられている。
 
昨年末の読書会では、中二病だとか痛いとか寒いとか散々な評価だったけど、
そんな「自分とはまるで正反対の人間を理想と仰ぐような思想家」(by シオラン)が、
なんとも人間臭くて、ちょっと愛おしいと思った。