読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

意識低い系の読書メモ

文学・会計学が中心

「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」

妻の実家にこの本が置いてあった。ブックオフの古本で、100円の値札が貼られたまま。
妻は村上春樹とか読まなさそうな人種なので新鮮に思ったが、どうやら妻の母親が買ったものらしい。
 
さらっと読めておもしろかった。
河合隼雄の本は初めて読んだが、相手の本心を引き出すのがうまいなあと思った。
相手のペースでしゃべらせる。相手と同じ立場に自分も立つ。
そして、相手の言葉に近い言葉を使いながら、柔らかく後押しする感じ。
 
河合隼雄が若い頃、登場人物に同調するあまり、友人たちの映画の批評についていけなかった話があったが、
いかにも聴き役に徹する河合隼雄らしいエピソードだと思った。
 
以下、読んで思ったことをメモ。
 
<イメージと物語>
物語を作ることは、第一に自分の中にある「欠落」を埋めることで自分を癒すための行為である。
その意味では、精神分析医にかかる患者が自分のことを語るのと同じである。
ただ、その物語が提示する「欠落との格闘」に客観性があるとき、それは芸術として、他者にそのイメージが共有され、他者を癒すことがある。
(イメージは物語という媒介でしか伝わることがなく、一方でイメージのない物語はすぐに飽きてしまう)
 
そういう意味では、物語を作るのは必然的に苦しみを伴うし、必ず作者自身を超えたところに存在する。 
だから、村上春樹が小説を書くとき、あらかじめあらすじや結論が決まっているものではないし、
自分の書いた小説について、自分がその意味をすべて把握しているものでもない。
 
<日本流のコミットメント>
学生運動の挫折から、長らく「デタッチメント」志向だった若者が、再び「コミットメント」を始める。
オウム事件阪神淡路大震災が起こった1995年は、そんなひとつの転換点だった。
村上春樹もこのころ「ねじまき鳥クロニクル」を発表し、自身もコミットメント志向へと移行した。
 
しかし、日本人にとって大事なのは、「何に」コミットするかという問題だ。
欧米のような「個」を持たない日本人は、コミットしたいという気分が先にあって、さてでは何にコミットしようかと探している。
そしていざコミットするにしても「個」を持たないため、いつの間にかコミットによる自己表現は忘れられ、コミット先での派閥争いになってしまう。
 
対談は90年代のものだが、個人的な意見では、最近は2chSNSの広まりで、自分のコミット先がいかに「勝ち馬」であるかのマウンティング大会になっている雰囲気がある。
そして誰もがヘトヘトになって疲れているのに、同族意識に縛られてそれを言い出せない。
まさに、「コミットメントのディストピア」と言える状況。
いま求められているのは、再びデタッチメントではないかと思ったり。