意識低い系の読書メモ

文学・会計学が中心

(感想)「フランス革命 歴史における劇薬」遅塚忠躬

部活の顧問は世界史の先生だった。
おっとりした猫背で長身のおじいさんだったが、世界史の授業になると豹変して熱く語る。
ほとんど板書もせず、寝ている生徒に意地悪く当てたりすることもせず、いつも民衆の声を代弁するように叫んだりして、
まるでテレビのドキュメンタリーを見ているような授業だった。
東大出身で左翼だと噂されていたが、事実はともかくしっくりくるイメージだった。
 
それでも当時フランス革命はよくわからなかった。
ひとつひとつの事件はわかるのだが、なんでそんなに短期間で主役がくるくる入れ替わってしまうのか。
偉大な出来事であるというわりに、ギロチンによる血ばかりが流れている。
一足先に市民革命を成し遂げたイギリスとは、相変わらず戦争が続いている。
人権を宣言しておきながら、革命の最後にやってきたのはナポレオンの天下だった・・・
 
国王、貴族、第三身分のブルジョワ、第三身分でもブルジョワでない民衆(市民や農民)・・・
あまりにも色々な思いが交錯して、一本のドキュメンタリーのように語ることが不可能な時代。
 
たしかにフランス革命は身分対決と捉えることができる。
しかし、「悪い王様が威張っていて、国民たちが貧乏で苦しんでいる、
国民たちはなんとかしたいけど、選挙権がないからどうすることもできない、
だからそんな悪い王様をやっつけて、民主主義の社会を作ろう!」
という簡単な話ではない。
 
まず、「第三身分」と言っても、革命の主役であるブルジョワはそんなに貧乏ではない。
彼らは資本主義経済によって大いに栄え、経済的にはすでに貴族と渡り合える水準にある。
決して金持ちvs貧乏のような単純な二項対立ではないのだ。
 
ただ貴族(全体の2%)は免税特権が与えられ、税金は払わなくていいし、働かなくても持っている土地からの収入があるのに対し、
ブルジョワ(全体の23%)は稼げば稼ぐほど高い税金を払わなくてはならず、しかも払った税金は王室に無駄遣いされ、
国内関税で自由な商取引が制限されるくせに、産業革命で安く生産されるイギリス製品に対する保護関税は貴族に拒否される。
こういう政治経済的な対決があってこそ、フランス革命は起きたのである。
 
第三身分内でも、ブルジョワ(全体の23%)とその他の民衆(全体の75%)ではわけが違う。
ブルジョワは金がある。金があるから教育もある。だからルソーを読んで、大いに影響された。
しかしその日食べていくのに精一杯な民衆は、選挙権よりもパンの値段がが重要である。
教育もなく、文字ですら読めないのに、啓蒙思想に触発されるなんてことはありえない。
だから1983年に初めて実施された、男子普通選挙での投票率は10%程度に過ぎなかった。
 
民衆の力を基盤にするジャコバン派は、本来革命の同志だった者たちを次々にギロチン送りにした。
明日の保証も教育もない民衆にとっては、金持ちはみんな敵なのである。
 
極端に言えば、ブルジョワと民衆は「特権階級でない」ことだけの連帯であり、そもそも利害関係が真逆である。
パンの値段ひとつとっても、民衆が求める価格統制は、ブルジョワがよしとする自由主義経済に真っ向から反するものである。
実際、のちに起こる社会主義の運動は、ブルジョワと民衆の直接対決に他ならない。
 
ぼくは別に歴史が好きというわけではなく、例えば日本の幕末〜明治維新にはほとんど興味がない。
それはドラマティックかもしれないが、あくまで幕府派の武士と開国派の武士のぶつかり合い、英雄同士のガチンコ対決という感じがする。
そこには無名のブルジョワジーたちの生々しい打算や、大衆の無分別な要求がないのである。
維新の立役者たちの志の高さに比べれば、ロベスピエールもナポレオンも、ちっとも憧れるような人物ではない。
そもそも彼らは人物というよりは、むしろひとつの現象のようにすら感じられる。
 
経済環境で人間は決まる。
そして経済的に条件づけられた人々が、時に英雄の名を借りつつ、歴史を動かしていくのだ。
 
世間知らずな高校生の頃から、ぼくは少し大人になったのかもしれないと思った。