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意識低い系の読書メモ

文学・会計学が中心

(感想)「ツァラトゥストラかく語りき」ニーチェ

 

ニーチェといえば、「神は死んだ」という中二病全開なフレーズである。
しかし、本当の問題は、神なき時代にどう生きるかということだ。
 
神なき時代の人々は、伝統的キリスト教観から解放されて、自由になったかと思えば、
むしろ逆に、その自由を自ら放棄しているような有様だ。
人々は群れになって、お互いに馴れ合って、生ぬるい幸福に安住している。
みんなと一緒が良くて、意見が一致することが重要で、周りから孤立することはタブーである。
もはや新しく創造したり、何か彼方のものに憧れたりすることはない。
生きるためだけに生きている。生命そのものが目的である。
そんな人間は決して、独立した自由な個人とはいえない。ニーチェはこれを「畜群」と呼んだ。
 
ツァラトゥストラはそんな人間たちに「超人」の教えを説く。
 
「人間は、克服されねばならない何かだ」
「人間の偉大さは、人間が橋であり、それ自体は目的ではないということにある。人間が愛しうるのは、人間が移りゆきであり、没落であるからだ」
 
人間は本来、綱渡りのように不安定なものだ。
進むのも、戻るのも、立ち止まるのも危険な存在。
綱から落ちて死ぬこともあるが、むしろ死ぬべき時に死ぬべきなのだ。
ニーチェはそんな動的なイメージに人間を見いだす。
 
畜群は逸脱を嫌う。英雄を嫌う。創造する者、孤独な者を嫌う。
そんな畜群の中に留まってはならない。
超人は「汝なすべし」(既存の価値観)に対して「Nein」(否)を突きつけ、
「われ欲す」(自由を求める精神)に「Ja」(然り)と宣言する。
自らの徳は他者のそれと戦うものであり、本質的に戦うことが避けられないものである。
 
ニーチェの求める人間像は、このように動的で力強いものだ。
安っぽくいえば、「変化を恐れないこと」や「世間に流されず、自分を持つこと」でもある。
しかし、ニーチェが鋭かったのはそこではない。
 
ツァラトゥストラは群衆を軽蔑する。
しかし、群衆に嫌気がさしているのは、何もツァラトゥストラだけではないのである。
「こんな世界はくだらない」と世間を軽蔑する厭世家はいつの世にもいるようだ。
 
しかしニーチェはそういう態度も否定する。彼らの軽蔑を軽蔑する。
なぜなら、厭世的な態度というのは、結局「自分が世間で不遇である」という
嫉妬や復讐心(ルサンチマン)が根底にあるからである。
彼らがもしちやほやされていたら、何の不満もなく群衆の中で安住していたに違いない。
その意味において、彼らは群衆と同レベルである。
 
厭世家だけではない。
現実世界の価値観から離れて、徳や正義を語る者、「生に意味などない」と死を説く者、学者、詩人、隠遁者・・・
ツァラトゥストラは人間界で、そんな一見「崇高」に見えがちな人々が、実は嫉妬と復讐心のかたまりに過ぎないことを見抜く。
そんなゴマカシな「Nein」を、ニーチェは決して認めない。
 
シニズムに陥らずに既存の価値観を乗り越えていくこと。
しかしそれは非常に危ういバランスでしか成り立たないものだ。
実際、ニーチェ自身、ルサンチマンの塊のような存在で、発狂して精神病院に入れられている。
 
昨年末の読書会では、中二病だとか痛いとか寒いとか散々な評価だったけど、
そんな「自分とはまるで正反対の人間を理想と仰ぐような思想家」(by シオラン)が、
なんとも人間臭くて、ちょっと愛おしいと思った。