意識低い系の読書メモ

文学・会計学が中心

(感想)「カラマーゾフの兄弟」ドストエフスキー

通しで読んだのは、これで3回目になる。
たまたまだが、初めて読んだのはアリョーシャの年で、2回目はイワンの年、
そして今回はドミートリーをちょっと超えた年で読んだことになる。
それぞれ違う翻訳で読んだので、この本だけで12冊も本棚にある。
 
欲望の権化、父ヒョードル。金好き、酒好き、女好き。
粗暴だが気高い長男ミーチャ、理性的な次男イワン、敬虔な三男アリョーシャ。
表向きの話の展開は、ヒョードルとミーチャの女と金をめぐる争い、そして殺人事件である。
しかし脇役も含めて登場人物それぞれに哲学があり、むしろ重みはそちらにあって、
腹の底をえぐられるような読み応えがある。
 
科学の発展、農奴解放、無神論社会主義の台頭、
それまで当たり前だったキリスト教的価値観が崩れていく19世紀。
そんな時代で、ヒョードルカラマーゾフ(彼はロシアそのものだ)と、その血を受け継ぐカラマーゾフの兄弟
共通するのは、人間と人間への生活欲への肯定である。
そこから得られる(べき)結論は、アリョーシャの信仰か?それともイワンの無神論か?
 
有名な「大審問官」の後、草庵に戻ってきたアリョーシャと臨終直前のゾシマのやり取りが好きだ。
長老ゾシマはミーチャのために祈りを捧げ、ミーチャを恐るべき犯罪から救うべくアリョーシャを遣わした。
しかし戻ってきて「兄に会えたか」と聞かれたアリョーシャは、どちらの兄のことを言っているのかわからない。
アリョーシャは敬虔なキリスト教徒だが、その問題意識はミーチャ(ロシアの「運命」)よりもむしろ、
イワンの無神論の側にあるのだ。
母(神がかり)を同じくするイワン(無神論)とアリョーシャ(信仰)は、いつも表裏一体の関係にある。
何度読んでも、これほどの緊張感を味わえる小説は他にないと思える。
 
でもぼくも年が近付いたせいか、今回はミーチャに共感するところが多かった。
ミーチャは素朴な信仰心も持っているが、混沌とした存在だ。
善であり悪であり、愛しながら憎しみ、高潔な心を持って卑劣な行為に走る。
素朴と混沌は矛盾しない。あるいは、人間はどこまでいっても矛盾した存在である。
 
そしてそんな人間を、丸ごと、肯定してくれる存在があること。
主役だから当たり前だけど、この物語にアリョーシャがいることが素直に嬉しい。
また何度でも読み返そう。

お盆、マルクス、人工知能

お盆明け。休みがそれなりにあったため、むしろお盆ボケという感じ。
ぼんやり研修なんて受けていると、つい余計なことを妄想してしまう。
 
【技術は人を労働から解放するか】
 
こないだ「明日、機械がヒトになる」を読んで以来、AIについて考えるようになった。
AIはディープラーニングにより、自律的に学習し発展する。管理する人間と管理される機械、の枠組みを超えていく。
技術の進歩に、素直にすげー!と驚く。
 
一方で、ニュースでちょこちょこ見るAIの話題は、たいてい雇用問題である。
AIにホワイトカラーの仕事をやらせるようになれば、それまでその仕事に就いていた人の雇用が脅かされる、
それも今ある大半の仕事がAIによって奪われるかもしれない、というものだ。
上の本とは違って、結構その書きぶりは深刻だったりする。
 
AIは頭脳である。人の仕事はほとんどできる。
AIは人の暮らしを便利にするものである。
なのに、じゃあもう働かなくていいじゃん!とはならないようだ。
むしろ、人は仕事がなくなって、どうしようと困っている。
人間全体としては便利になるはずなのに、たくさんの人が困る不思議。
そんな素朴な疑問を、誰も話題にしないの不思議。
 
これまで人類は道具をつくり、機械をつくり、繁栄してきたのに、
相変わらず人間は働いてばかりいる。
技術は永遠に、人を労働から解放しないのか?
 
【技術と経済の仕組み】
 
社会の仕組みということがある。
「AIが仕事をする」と、そこから得る利益はAIを作った人のものとなる。
つまり、「AIを使って人が仕事をする」場合と同様である。
AIによって仕事がなくなるというが、利益の帰属先という点から考えると、
AIと人間が競争するというより、AIを作った人間が既存の仕事に就く人間と競争するということだ。
 
マルクスっぽく言うと、
・人間(企業)がAIに投資する。
・投資されたAIが、仕事をして、金を儲ける。
・儲けた金は、投資した人間(企業)のものとなる。
・その金で再び、人間(企業)がAIに投資する。
AIに仕事を奪われた人には、当然ながら金は入ってこない。
 
これは何もAIに限らず、昔から同じことが起こっている。近代的な製造業で考えれば、
・資本を結集し、資本家は大規模な大量生産工場に投資する。
・工場で大量生産した商品を売って、金を儲ける。
・儲けた金は、資本家のものとなる。
・その金で再び、資本家が工場に投資する。
それまで自分の腕一本でモノを作っていた、職人たちの仕事は奪われていった。
 
つまり、産業革命によって職人の仕事が奪われたのと、AIによってホワイトカラーの仕事が奪われるのはパラレルである。
AIだからといって、新しいことは何もないのだ。
 
【AIは仕組み自体を変えられるか】
 
ここで、貧富の差が出るから、そのうち労働者階級の不満がたまって革命が起こって、
資本(工場)は国有化されるだろうというのがマルクスだった。
でも、そんなことにはもちろんならなかった。それなりの社会福祉で凌ぎつつ、資本主義は相変わらず元気にやっている。
 
しかし、AIはそういう資本主義の仕組み自体を変えてしまうかもしれない。
人間が管理する大量生産工場とは違い、AIは自律的な学習と発展の可能性を持っているからだ。
 
例えば、AIは単なる投資対象にとどまらず、自ら投資意思決定の主体となったら?
さらに、その投資資本所有の主体となったら?
人間の手を介さずに、技術投資プロセスが完結する未来がありうるのではないか。
 
・AIが最良の投資先を決定する。リスクとリターン、ポートフォリオはもちろん学習している。
・AIが投資する。場合によっては、AIがAIに投資することもありうる。
・投資から得られた利益は、「AIの作成者(企業)」でなく「AIそのもの」である。
・AIは再び最良の投資先を決定し、AIだけで経済が回っていく。
 
これなら、中間管理職的なホワイトカラーが不要であるばかりでなく、もはや投資家も経営者も必要ない。
このとき、人間はついに労働から解放されるのかもしれない。
 
人間の仕事は、古代アテネの市民のように一日中議論をしたり、芸術作品をつくったり、そんな時代がやってきたらいいな・・・
・・・とか妄想しながら、お盆明けの毎日が過ぎていく。

夏休みの終わり

今年の春はハードだった。
引っ越し、仕事の繁忙期、結婚式、新婚旅行。
夏が本格的になって少し落ち着いて、家計の管理とか荷物の整理とか、
いよいよ新生活を作っていく時期になっても、
夏休みまではのんびりしたいねと、相変わらず同棲生活の延長のような毎日で、
そんな夫婦がいざ夏休みに入ったところで、今さらそんな生活が変わるわけでもなく、
夏休みが終わり、今に至る。
 
夏休みは特に何かしていたわけでもなく、
実家に帰れば家族全員がポケモンGOにハマっているからみんなで公園に行ったり、
嫁の実家を訪れれば生まれたての姪っ子がいるから可愛がったり、
たまにはどこかに行こうと大渋滞のなか友達と岐阜の山奥に滝を見に行ったり、
何もしなかったけれど、こういうとりとめもないことが幸せなのかなあと思ったりしながら、
夜遅くまで働く嫁を家で待ちつつ、熱帯夜をぼんやりと過ごしている。
 
何となく続いていく毎日のかけがえのなさ。
気づいた時にはもう遅いが、あらかじめ気づいていたってどうすることもできない。
流れる時間に、絶えず身を切り刻まれているような気持ち。
いつかそれに、癒されると感じるときがくるのだろうか。
一生懸命な日も、だらだらした日も、今は一日一日を噛み締めるだけだ。