意識低い系の読書メモ

文学・会計学が中心

「虚構」に振り回される人々

昨年大ヒットしたユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」によると、貨幣こそ人類が生み出した最大の「虚構」です。人類は貨幣という想像上の秩序を信じることで、他の動物にはない広範なコミュニティを成立させてきました。とすると、そんな貨幣制度に不安定に乗っかっている「利益」という会計上の概念は、虚構の中の虚構と言えるのかもしれません。
最近の東芝関連のニュースを読んでいると、そんな虚構の持つ恐ろしい威力を感じずにはいられません。

1.「減損損失」に対する世間のイメージ

減損損失数千億円というと、数千億円を支払わなければならないような誤解を招きがちです。しかも東芝の場合、減損損失の結果、債務超過に陥ると言われているのでなおさらです。粉飾決算の発覚から始まった窮地を、稼ぎ頭たる半導体事業を切り売りして凌ごうとする東芝に、「使い込みがバレたので家宝のダイヤモンドを質に入れる」ようなイメージを持つ人が多いのでしょう。

しかし、減損損失とは「すでに投資した資産の価値を将来の回収可能性に照らし合わせて減額する」損失です。専門用語でいうとわかりにくいのですが、要するにすでに買ったものに「もう買っただけの価値はないよ」と言っているのです。

2.投資の本質と減損損失の意味

企業は慈善事業ではないので、何かを買う時には(少なくとも長期的には)必ず見返りを求めます。見返りを求めて何か(企業ならお金)を費やすのが投資です。上で「資産」といいましたが、別に形のあるものに限りません。いずれにせよ、企業が何かの機械を買ったり、他の企業を買ったり、労働力を買ったり(=人を雇ったり)するのは、すべてそれ以上の「使用価値」があると見込んでいるからです。

ただし、見込みが外れることはもちろんあります。そして買ったものに買ったほどの使用価値がないとわかった場合、その時点で損失が発生します。これが減損損失です。したがって減損損失は、「支払わなければならない債務の発生」ではなく、「すでに支払った使用価値の消滅」です。

営利企業にとっての「使用価値」は最終的にはお金を稼ぐことにありますので、例えば5,000億円の減損損失は「長い目で見れば稼げると思って支払った5,000億円が、パーになりそうだ」という意味の損失です。もちろんあてにしていた5,000億円が入ってこなくなれば、長期的には給料の支払いや借金の返済が苦しくなるでしょう。しかし、突如5,000億円を請求され、来月払えなければ倒産というわけではありません。

3.「虚構」に振り回される「嘘つき」

したがって求められるのは、お金(よく「キャッシュ」といいます)を稼いでいける体制の再構築でしょう。しかし、将来のキャッシュが見込めなくなったと原発事業を減損したのに、将来のキャッシュが見込める半導体事業を売却しようとしている。これはまったくの本末転倒ではないかと思うのです。

もちろん、減損を放置すれば巨大赤字となり債務超過となり、上場廃止要件が目の前に迫ります。また、粉飾に対する社会的な批判を考慮したこともあるでしょう。そう考えればこうした場当たり的な対応もやむを得ないのかもしれません。

とくに東芝という会社に対して、個人的な思い入れがあるわけでもありません。ただ、利益という「虚構」を粉飾決算で「嘘」にした東芝が、減損というやはり虚構の操作で解体に至る過程、人類が作り出した想像上の秩序が人類自らを振り回すそのありように、不思議と心を惹かれずにはいられないのです。

仕事嫌いだけど「ストレングスファインダー」をやってみた

1.ストレングスファインダーで人生逆転!・・・か?

ストレングスファインダーについて調べると、ほぼ間違いなくこれを絶賛した記事ばかり出てくる。誰が得するのか、ストレングスファインダーのテストの受け方を懇切丁寧に説明する記事すらある。しかも大抵リクナビの「グッドポイント診断」も一緒にお勧めされている。

どんな無垢な主義主張も心無い匿名者によってボロクソにけなされるこんな世の中で、奇跡のような高評価の嵐だ。

「自分の才能に目覚める」・・・確かに魅惑的な響きだ。30手前にしていまだ「きょうも会社に行きたくないよプー」なんて言っているぼくは、藁にもすがる気持ちでストレングスファインダーにすがりついた。

2.やってみた

質問文は英語の直訳調で、読むのにちょっと苦労する。しかも1問20秒と短い。なので考えたり悩む時間はない。実際3問くらい時間切れになった。

ただし、その分ピンと来たほうを選びやすい。質問者の意図みたいなものを考える余裕がないので、無意識で直感的に答えている感覚になる。

話がそれるが、各所でオススメされている「グッドポイント診断」は、この点で好きになれない。「一人でやるのが好き or みんなでやるのが好き」みたいな質問は、瞬時にイメージできすぎて、「好きなことは一人でやりたいけど、嫌な仕事はみんなでやってうまく押し付けたいなあ」とか、邪念が入ってしまうと選べなくなる。ありのままの醜い自分と純粋潔白な理想の自分がせめぎ合って、解答不能になってしまう。結果もストレングスファインダーとはかなり異なるものとなったが、ストレングスファインダーのほうがだいぶ自己認識に近いと感じた。

30分くらいのストレングスファインダー怒涛の質問に答え終わると、すぐに自分の強みが通知される。全部で34個の強みから、回答者のトップ5を判定してくれる。

3.ストレングスファインダーは当たる!悲しいくらいに当たる!

ぼくの強みNo1は「内省」らしい。く、暗い・・・。

「・・・あなたは独りの時間を楽しむ類の人です。なぜなら、独りでいる時間は、黙想し内省するための時間だからです。あなたは内省的です・・・」

ですよねー。当たってる。新婚なのに妻と寝室を別にされたり、よく新興宗教に勧誘されるのは、こういう部分を見抜かれているのかもしれない。

ところで、この本は数ある外国産の啓発書の例に漏れず、とにかく具体例が豊富である。様々な「才能」に恵まれた有名無名の成功者たちが登場する。

「<内省>を強みとする人たちの声」には、「一見外交的に見えるし、実際人が好きけど、一人で考える時間こそ大事よね」というキャリアウーマンが出てくる。気持ちはわかるが、彼女が成功しているのは「一見外交的に見えるし、実際人が好き」という部分が大きいのではとがっかりする。一方、360度どこから見ても内向的なぼくがシンパシーを感じたのは、「みんな孤独に耐えられないけど、俺は独房のほうが落ち着く」という元政治犯の声。この本唯一の前科者である・・・。

他に恵まれた才能は、「学習欲」「収集心」。各々丁寧な解説はいただけるが、まあ文字通りの意味である。完全にネクラのオタクまっしぐらじゃないか・・・。「社交性」や「コミュニケーション」、「活発性」や「ポジティブ」のような、現代日本で求められそうな才能がないことくらいは自覚しているが、「親密性」とか「共感性」とか、人間味や優しさ溢れる素質もないとは・・・。それに、学習して収集するばかりの知識偏重で、「着想」(=連想力)みたいなクリエイティブな面は恵まれていないのも残念である。

まあ、でも、残酷なほど、よく当たっている。

4.疑問点

褒めてばかり(?)でもつまらないので、疑問点を記しておこう。

まず最初の疑問は、成果を出すことが幸せとは限らないということである。この本では、才能を「常に高い成果を出し続けること」と定義しているが、成果を出せばその人は幸せかという疑問は決して挟まない。むしろ、与えられた才能を活かさないなんて無責任だとすら書かれている。「窓際こそ真の勝ち組」みたいな価値観は、彼らには想像もできないのだろうか。

もう一つの疑問は、「強みを伸ばせ」というこの本の主張に関してである。

この本では、才能は「能力」ではなく、無意識に働く「思考パターン」として捉えられている。思考パターンは後天的には変更できないので、意識的に弱みを克服しようにも脳の構造的に限界があり、逆に強みはどこまでも強化していける、というわけだ。

確かに、才能にブレーキをかけないことは大事だ。しかし、才能は無意識の思考パターンなのであるから、自然としていれば才能は伸びていくのではないか。むしろ大事なのは、「伸びもしない才能は適当に折り合いをつけて諦めろ」ということ、ぼくの場合では、「コミュ障なのは治らないから受け入れろ」ということではないか。

たった5つの才能ではなく、29個の与えられなかった才能を、克服しようがないと自覚しながら見つめること。「内省的」であり「ポジティブ」でないぼくは、欠点にこそ人間の多様な個性を認めてしまう。トルストイの言葉で締めよう。

「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」

なぜ仕事はなくならないのか 〜マルクスとAI〜

1.「ぼくは働きたくない、なぜ人は働かなくてはならないのだろうか?」

と子どものころから考え続けていました。自営業でいつも仕事が辛そうだった父親の影響かもしれません。もちろん、「生きていくためのお金が必要だから」と答えるのは簡単です。我が家はニートを養うほど裕福な家庭ではありませんでした。

それでも心の底から納得はできませんでした。だって、世の中はどんどん便利になるのです。人が作っていたものを機械が生産できるようになるなら、人はその分働かずに暮らすことができるのではないか、そういうふうに思っていました。最近では、AI(人工知能)がよくニュースになっています。その中には、AIの可能性を純粋に夢見る記事もありますが、その一方で「AIが将来の仕事を奪う」と危機を煽るものも少なくありません。有名なのはこんなのでしょうか。

しかし、考えてみれば不思議なことです。AIにしろ機械にしろ、人間を幸せにする技術ではなかったのでしょうか。例えば人工知能による車の自動運転は、不幸な自動車事故を減らすだけでなく、修理や保険といった事故対応の仕事から人類を解放するでしょう。それなのに、「修理や保険の仕事をしていた人たち」は仕事から解放されず、別の仕事を見つけなければならないのです。

2.サラリーマンになって、マルクスが少しだけ理解できた

「働きたくない」と子どもの頃から思い続けたぼくは、その分勉強は熱心にやるタイプでした。大学で経済学部に入り、ミクロやら会計やら、ずいぶんと勉強しました。でも、マルクスはどうしても理解ができなかったんです。「資本論」の字面を追っても追っても、一向に内容が頭に入ってこないんです。

それでも、大学院に行くお金もなくて、諦めて就職して(こんな人間を雇う会社がよくあったなあと思います)、サラリーマンをしているとき、ふと「資本論」の第1巻を読んでみたら、すごくしっくりくると言うか、要するに何が言いたいのかがわかったような気がしたんです。もちろん、学術的にはいい加減な理解だと思いますが。

それは、「大工場の建設によってどんどんモノは豊かになっていくのに、なぜ労働者(プロレタリアート)の暮らしはこんなに貧しいのだろう」ということです。経済が成熟した現代でも、大きく見れば企業は新しい技術やサービスで世の中を便利にしている。なのに、これが個人レベルになると、どうしてもこの技術やサービスが人間の幸せに結びつくとは思えない・・・そんな感覚が、「資本論」のイメージと重なったのです。

3.マルクス資本論」の要点

貨幣はもともと、交換手段に過ぎないものです。物々交換だと、ニーズがぴったり一致した相手としか交換できませんから、貨幣という一般的なものを媒介させることによって、格段に便利になる。これをマルクスは「貨幣の交換機能」と名付けました。

しかし、貨幣はすぐにモノと交換しなくてはいけないわけではありません。将来の交換に備えて「取っておく」ことができます。「貨幣の貯蔵機能」と呼ばれるものですが、これが「資本論」を理解するためにめっっっちゃ重要な指摘だと思うんです。

どういうことかというと、誰かが貨幣をめっっっちゃ貯めて、例えば自分が食べるパンと交換するのではなく、大規模なパン工場を作ります。この工場建設の出資者が「資本家」です。工場で作れば、人の手で作るよりも、パン1個あたりのコストは安くなる。手でパンを作っていた人は、競争力がないので廃業です。仕方がないので、パン工場の労働者になります。

パンだけでなく、あらゆるモノ・地域で資本家による大規模工場で生産されるようになれば、もはや資本家の思うままです。パン工場の労働者の給料は、そこの資本家が決めることができます。労働者が文句を言うなら、クビにするぞと脅せばいい。クビにすれば労働者は路頭に迷いますから、絶対に言うことを聞かせられます。

しかも厄介なのは、工場の労働者の給料を減らせば、その分は資本家の利益となることです。そうすると、資本家にはよりお金がたまる。そのたまったお金で、次なる工場を建設する。そして、次なる労働者を使い倒す・・・。こうして、最初にお金をためた人が、全てを支配する構図となるわけです。

トマ・ピケティの分厚い本を読むまでもなく(おもしろいですが)、お金というのはすでにお金を持っている人にしか集まらず、資本主義において格差は広がっていくに決まっているのです。

もちろんマルクスへの反論はいくらでも考えられます。労働者を安く使い倒せば、彼らの購買力自体なくなってしまうため、結局少数の資本家にとっては「作っても売れない」ということになります。一方、マルクス「主義者」の主張は、こんな世の中ならプロレタリアートは結託して、共産主義革命を起こし、資本(=工場)の共有を目指そうというところにありますが、でもまあ、それはこの時代に語るほどのことはないように思います。

4.豊かになっても働かなければならないシンプルな理由

ここで、最初の問いに戻りましょう。ぼくらはなぜ、働かなくてはならないのだろうか?

マルクスの例でいくと、パン工場ができた時点で、人類は「パンを手で作る仕事」から解放されたはずです。工場のパンはまずいと思いますが、食糧生産という点で人類は確実に進歩しています。しかし、「手でパンを作っていた人」は仕事から解放されていません。単に失職しただけです。パン工場は、彼の所有物ではないからです。当たり前すぎるのですが、ここが重要な点です。

つまり、人類の生産技術がいくら進歩しても、その果実は「その生産技術の所有者」が受け取るのです。市民革命を経て、所有権が確立した近代社会では、これは絶対の原則です。したがって、まとまった資産を持たないぼくたちは、一攫千金でもない限り(チャンスはあります)、どんなに暮らしが便利になっても、やはり死ぬまで働き続けなければならばならないようです。

5.AIは資本主義経済をアップデートするか

ぼくはあまり機械に強いタイプではありません。興味もそんなにない。むしろ、それが人間の行動や思想に与える影響について考えるほうが楽しいです。なのでAIもほとんど興味がなかったのですが、この本を読んでおもしろそう!と思いました。

AIはディープラーニングにより、自律的に学習し発展します。「明日、機械がヒトになる」というタイトルが示す通り、AIは従来の「機械を使う人間」と「人間に使われる機械」という枠組みを超えていくものです。

従来のマルクス的経済観で考えれば、資本家(企業)がAIに投資する。AIを使って生み出した利益は、AIに投資した資本家(企業)のものとなる。AIに投資した資本家(企業)は、その利益でさらなるAI投資を行うでしょう。トヨタがAIによる車の自動運転を開発したら、そこから得られる利益はトヨタのものです。でも、それならAIも従来の機械と変わりません。

しかし、AIはもはや「ヒト」、それも超優秀な人間になれる可能性があります。もし、何かの拍子に所有権の原則が破られ、「ヒトとなったAI」から得られる利益が「AIの所有者」でなく「AI自身」に帰属することになったら、どうでしょうか?

AIがAIを用いて、企画し、設計し、物理的な面は3Dプリンターに任せ、生産調整し、品質管理し、アフターケアまで行う。この時点でホワイトカラーも含めて従業員は不要ですが、重要なのは、こうして生み出した利益が資本家でなく、AI自身に帰属することです。そして、利益の分配と再投資も、AI自身が行うこと。最初にお金をためた人が総取りする資本主義経済システムで、それが人間からAIにすり替えられる・・・この瞬間、資本家のいない資本主義が誕生するのです。

そこで生身の人間は、史上初めて、「仕事」から解放(あるいは、追放)されるのかもしれません。その時人間は、古代アテネの市民のように、広場で政治や哲学について延々と議論するような存在になるのかもしれません。2chtwitterで右と左が貶しあったり、Mediumで観念的なことを言ったりする、アテネ2.0。・・・あんまり今と変わらないですね。これじゃ人類はAIに滅ぼされるな。我ながらひどい結論でがっかりしてしまいました。いずれにしても「明日会社休みたいなあ」ということです。

(感想)色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

村上春樹の小説は割と読んでいる方だと思うが、随分と内省的になったなあと思った。
デタッチメントを書いたのが初期で、コミットメントが中期(ねじまき鳥とか)だとすると、今回のテーマは「自分に向き合うこと」だろうか。
文章は相変わらずライトで、気取った言い回しも健在だが、どろどろした「圧倒的な暴力」は影を潜める。
 
  • あらすじ(自分と向き合うこと)
田崎つくるは大学時代、「高校時代の友人グループに突然ハブられる」という事件にあった。
しかも、なぜハブられたのかはわからないまま。
その友人グループはいつ思い返しても完璧に調和した5人といえるものだった。
だからつくるにとってその事件はとてもショックなことで、事件後しばらくは死ぬことばかり考えて暮らしていた。
 
田崎つくるはその後、東京の鉄道会社で駅をつくる仕事に就いた。しかも、それは昔から興味のあった仕事だ。
仕事では夢が叶って、出身は名古屋だが東京には親から譲り受けたマンションもある。
はっきりいって不自由のない生活だ。
しかし、36歳となった今も、友人や恋人をうまくつくることができない。
人を強く求めるという感情が、大学時代の事件によって損なわれてしまっているのだ。
 
一見不自由のない田崎つくるだが、心の底には闇がある。
事件から長い年月が経ち、普通に生きていけるようになっても、それは闇を乗り越えたのではなく、見ないふりをすることに慣れていただけ。
その闇がいつかにゅっと顔を出して、(「シロ」の場合のように)致命的な破壊をもたらすかもしれない。
だから、取り返しのつかなくなる前に、その闇と対峙しなければならない・・・
かつての友人たちを訪問し、真実を知り、受け入れることで、田崎つくるは「人を強く求める」ことを回復する。
 
なぜか名古屋という街がこの小説のもう一つのテーマである。
友人グループだった「アカ」と「アオ」は、大学進学後もずっと地元名古屋にとどまり続けている。
スポーツマンの「アオ」はトヨタ車のディーラー、頭脳明晰の「アカ」は怪しげなセミナーを行う会社の社長。
彼らはつくると違って、高校時代のイメージとは違った仕事をしている。
特にアカはずいぶんと名古屋をディスってくれるのだが、名古屋在住としては心が傷むことばかり・・笑
 
「名古屋ももちろん大都会ではあるけれど、文化的な面をとりあげれば、東京に比べてうすらでかい地方都市という印象は否めない」
「名古屋は規模からいえば日本でも有数の大都会だが、同時に狭い街でもある。人は多く、産業も盛んで、ものは豊富だが、選択肢は意外に少ない。おれたちのような人間が自分に正直に自由に生きていくのは、ここではそう簡単なことじゃない。」
 
名古屋には足りないのは「過剰さ」だと思う。
不足はないけど、過剰がない。よく言えばちょうどいいし、悪く言えばもの足りない。
イケアはないけどニトリはある的な。
たまに東京や大阪出身の人で、名古屋が住みやすいという人もいるが、だいたい「自分の関心分野をすでに自覚し、受け入れている」感じの人だ。
文化がある種の過剰さから生まれるものだとすれば、文化不毛都市といわれるのも仕方ない。
 
「とにかく二人とも現在、名古屋市内に職場を持っている。どちらも生まれ落ちてから、基本的には一歩もその街を出ていない。学校もずっと名古屋、職場も名古屋。なんだかコナン・ドイルの『失われた世界』みたい。ねえ、名古屋ってそんなに居心地の良いところなの?」
「ここは地縁がものをいう土地なんだ・・・(中略)・・・この会社のクライアントには、大学でうちの父親に教わったという人間が少なからずいる。名古屋の産業界にはそういうがっちりしたネットワークみたいなものがあるんだ。名大の教授というのはここではちょっとしたブランドだからな。でもそんなもの、東京に出たらまず通用しない。洟もひっかけられやしない。そう思うだろう?」
「おれたちには、外に出て行くだけの勇気が持てなかった。育った土地を離れ、気の合う親友たちと離ればなれになることが怖かったんだ。そういう心地よい温もりをあとにすることができなかった。寒い冬の朝に暖かい布団から出られないみたいに。」
 
不足も過剰もない名古屋では、現状維持が美徳である。したがって人柄は保守的で、確かに地縁がものをいう。
村上春樹の小説の人物は基本的に裕福な家庭で育っているので、なおさらである。
 
「・・・名古屋でしばしば見かけるタイプの女性だ。整った顔立ちで身だしなみがいい。好感も持てる。髪はいつもきれいにカールしている。彼女たちは何かと金のかかる私立女子大学で仏文学を専攻し、卒業すると地元の会社に就職し、レセプションか秘書の仕事をする。そこに数年勤め、年に一度女友だちとパリに旅行し買い物をする。やがて前途有望な男性社員を見つけ、あるいは見合いをして結婚し、めでたく退社する。その後は子供を有名私立学校に入学させることに専念する。」
 
・・・これはさすがにどうだろう笑。
 
ちなみに「クロ」は名古屋でも東京でもなく、フィンランド男性と結婚しフィンランド在住である。
東京と名古屋のほかに、もう一つの道が示されている。
アカやアオのように「名古屋で保守的な空気に従って生きる」か、
つくるのように「東京で自分の道を貫く」か(つくるには自覚がないが、それはとても個性的なことだ)、
クロのように「フィンランドで『普通』から外れた暮らしを送る」か。
 
これは、バルザックの「ゴリオ爺さん」で主人公ラスティニヤックが悩んだ「服従、反抗、ヴォートラン」に似てはいまいか。
服従は南仏の故郷に帰ること(主人公は南仏の田舎貴族の息子であり、故郷に帰ればそれなりの暮らしはできる)、
反抗はパリに留まり、偽りだらけの社交界で自分の夢を叶えること、
ヴォートランはその名の通り、大犯罪者ヴォートランと手を組んで『常識』をひっくりかえしてしまうこと。
 
そう考えると、現在のヴォートランは理想の王子様なのかもしれない。

パリ祭のあとの円頓寺

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パリ祭も終わって、再び静かになった円頓寺

円頓寺に住んで数年、新旧入り混じる独特の雰囲気をいつも楽しませてもらいましたが、仕事の都合もあり、いつまでここに住めるかわからなくなりました。

今のうちに色々な店に行ってみようということで、今日はアーケードから一本入ったところにある「懐韻(なつね)」でランチ。

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敷居が高そうで今までなかなか入れなかったけど、ランチは2,200円とお手ごろです。

当日の予約だったけどなんとか入れました。

もともとは蔵だった場所をリノベーションした店内がおしゃれです。

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お昼の膳もコースで提供されます。

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真ん中左は、柿とクリームチーズを和えたもの。手前左のイワシ煮には、レーズンが添えてあります。串に刺さっているのはホタテと卵の燻製で、しっかりスモークされていてお酒に合いそうです。頼まなかったけど・・。

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そのあとも焼き魚やごはんがあって、お昼から和食を堪能しました。全体的に美味しかったし品数を考えればお値打ちだと思いました。

特にハマったのはデザートの黒ゴマときな粉のアイス、すごく黒ゴマがしっかりしていて、ゴマ好きにはたまりません・・!これだけでも買いに行きたいかも。

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円頓寺も雨が上がったので、四間道あたりをしばし散策。

四間道の石畳の道。

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このあたりでは、古い民家や蔵を利用した、個性的なお店が増えてきています。

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おしゃれなカフェのレストランのすぐ隣にはこんな昭和な風景も。それでいてベトナム料理屋の旗がなんともアンマッチです。でもこのギャップが、円頓寺の魅力。

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この後、話題の映画「この世界の片隅に」を見に、伏見まで行ってきました。名古屋の中心部も自転車であっという間の好立地。

これからも機会があれば円頓寺の写真をアップしようと思います。

(感想)「この世界の片隅に」

この世界の片隅に」を見た。
普段あまり映画は見ないけど、すばらしい映画だった。
普通の人が普通に淡々と暮らしていくことの厚み。彩り。力強さ。そして尊さ。
「生活」という言葉が思い浮かんだまま消えない。
 
生きている限り生活しなければならない。
戦争という悲惨な破壊に直面しても、死なない限り生活がある。
いつ爆弾が落ちてくるかわからないような毎日でもお腹はすく。
 
のんびり屋の「すず」。すずの生活は家事をすること、特にごはんを作ること。
限られた配給で、少しでも嫁ぎ先の家族を満足させるための試行錯誤。
でもすずの健気さは、戦争の悲劇性を増幅させるためのものではない。
ここでのテーマは逆に、戦争という異常事態の中でも、普通に生活する普通の人々の力強さだ。
 
この映画は小刻みに笑いどころがある。
軍国主義の風潮にあっても、人々は時に冗談を言って笑う。
それは不自然でもないし不謹慎でもない。
人が笑うのは、食べるのと同じ、生活のエネルギーなのである。
 
戦争で亡くなった人は多い。特攻も自決も原爆も、あってはならない出来事だ。
しかし、これだけの犠牲者を出した戦争でも、日本人の大部分は死ななかった。
そして生き残った人たちにはみな生活があった。
 
戦争時代の写真はほとんどが白黒で、悲惨な場面ばっかりで、
しかも戦争は日本史において大きな断絶として位置付けられている。
そのせいで、戦争はつい遠い昔の、気の狂った時代の出来事のように思えてしまう。
しかし、残った写真は白黒の悲惨な場面でも、人々の生活には色彩があり、喜怒哀楽があった。
そういうものをきちんとアニメが描くことで、すずたちの生活がぐっと身近になる。
 
この映画には泣きどころというものはない。ドラマチックな場面もない。
でも生活ってそんなものだ。だからこそ尊いのだと思う。
「生活」はどこかの政治家が、マクロなデータで分析するようなものではないのだ。
普通の人間がただ生きていくことに対する肯定。緩いタッチのアニメの底に流れる、力強いメッセージを感じた。

円頓寺秋のパリ祭

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家の近所でやっていた、「円頓寺秋のパリ祭」に行ってきました。
 
円頓寺名古屋駅から徒歩15分の商店街。
戦前は名古屋有数の繁華街の一つとして栄えていましたが、70年代に駅が廃線になると好立地なわりにアクセス手段がないために徐々に衰退し、その後の名古屋駅周辺エリアの開発の波に乗ることもなく、今でも昭和のままの街並みが残っています。
有名なのは七夕祭で、この時期になると商店街の人々によって毎年製作される「ハリボテ」が所狭しとアーケードに吊り下げられ、異彩を放つ様は名古屋の裏スポットして評判だとか。

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七夕祭前夜に遭遇したキッチュなハリボテ。気分はポケモンGO

 

 

 
そんな円頓寺のもう一つの大きなお祭りが「円頓寺秋のパリ祭」。
数年前から始まったこのパリ祭には、地元のおしゃれな雑貨屋さんやお菓子屋さんなどが出店し、昭和感あふれる円頓寺のアーケードとフランスのおしゃれなパッサージュの融合という、七夕祭とは別の意味でおもしろいお祭りとなっています。

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 フランス感のなさすぎる文字とトリコロールが絶妙にマッチ

 

 

普段は閑散としたアーケードも、この日は大盛況。前に進むのも大変です。いつもはシャッターが下りている店もちゃっかり開いていたり。

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円頓寺らしからぬおしゃれな雑貨がいろいろ。どれも個人でやっているお店のようで、ナチュラルな雰囲気。

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お祭りの定番、金魚すくいもパリ祭なので、おしゃれです。パリらしさを気にしたら負け。

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道を一本渡った「円頓寺本町」でも「クラフトマルシェ」が同時開催。こちらも個性的な店がたくさん。保守的で文化不毛といわれる名古屋だけど頑張ってほしい!

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パリ祭で賑わうかたわら、円頓寺の日常風景もあり。卵と牛乳買いました。

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パリ祭は買い物だけでなく、あちこちでアコーディオンなどの演奏も行われており、音楽的にも賑やかです。アコーディオン人口の多さにびっくり。

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お菓子をたくさん買って帰りましたが、どれも美味しかった!シンプルな素材で、でもバターがたっぷり使われています。食べ物の屋台は近所のフレンチなどが出店していたけれど、行列にめげてあまり食べられず。他にはカップに注がれたワインもあちこちで売っていました。

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円頓寺とパリという、異色の組み合わせに惹かれて覗いてみましたが、普通におしゃれなお店が多くて楽しめます。音楽を聴いてのんびりするもよし。

新旧が入り混じる懐の深い円頓寺商店街。お祭りだけでなく、まだまだおもしろいところがありそうです。

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